ある日、藤田のもとにSNS経由で一通のメッセージが届いた。
「オブザーバーとして、会議に出ていただけませんか?」
そこには「中川運河キャナルアート実行委員会」と書かれていた。
「え、中川運河?」
TERAの本社を中川区に置いて随分経つが、正直なところ中川区のどこが良いのか、測りかねていた。区名の由来である中川運河は、昭和の初期に名古屋港からの水上運送路として人工的に掘られたもので、水源がないことから水は淀んで濁り、時折いやな匂いを放つ。
ひとまず話を聞こうと、堀川沿いにある実行委員会のオフィスに向かう。その道すがら、クルマのウインドウ越しに眺める中川運河は、相変わらず冴えない場所だった。
「もはや過去の遺物としか思えない、汚い運河と周辺に建つ倉庫群。こんなところで何をしたいのだろう?」
オフィスに到着すると、10名ほどの人たちが集まっていた。名刺交換をする度、その肩書を見て驚く。大学教授、博士、著名な企業や組織の代表・・・。錚々たるメンバーである。
「なんだ?この人たちは。」
こんな凄いメンバーが集まる会になぜ呼ばれたのか、藤田は理解できなかった。混乱する頭を整理するまもなく、会議が始まった。
そこで見聞きしたものは、まさに目から鱗だった。フォトグラファが撮影した写真には、流れのない水面が鏡のように空や倉庫、草木を写し、「これは日本?」と思える風景があった。確かに少し目線を変えてみると、それは素晴らしい文化の片鱗が残ったまま忘れられた貴重な場所であった。
「ものづくり」の都市として名を馳せる名古屋は「デザイン博覧会開催地」「ユネスコデザイン都市」でもあるのに、残念ながらクリエイティブな文化は根付いてはいない。そういった動きは、東京を中心とするエリアに流れていってしまう。
ならば、アーティストの心をくすぐるこの場所でアートイベントを行い、それを起爆剤にして感性育むまちをつくる。あらゆる産業を抱えるこの地から、斬新なアイデアとデザインが生まれ、それらが映しだされた「もの」までを創り出す文化を醸成する。
その舞台として選ばれたのが、、類まれなポテンシャルを秘め、かつて東洋一と謳われた水辺「中川運河」だったのだ。
藤田は会議の意味=中川運河の価値を理解することができた。そして、自分が呼ばれた理由も分かってきた。
「ここには、イベント企画・広告・広報のプロがいない・・・。」
足らないピースを埋めるため、何より藤田自身が生まれ育った「ナゴヤ」にクリエイティブを根付かせるため、出来る範囲でということで少しずつ関わることにした。
翌日、藤田はTERAのスタッフを集め会議での経緯を詳しく話した。自分が広報という役割を担い、TERAの力を存分に発揮して、ナゴヤのデザイン、クリエイティブを活性化する。その可能性にスタッフの目が輝いた。
「藤田さん、中川運河キャナルアートに全面協力しましょう!」
藤田とTERAスタッフの想いには寸分の違いもなかった。その場でデザインの協賛を即決した。
「ありがとう。」
藤田は心の底から思った。このスタッフは自分の誇りだ。彼らと一緒なら必ず成功する。いや、させてみせると。
出来る範囲で、と関わりをスタートしたものの、いつの間にか相当な時間をこのイベントに費やすようになっていた。
2010年10月。中川運河キャナルアートNo.Zeroは台風の中で行われた。
悪天候にも関わらず、小栗橋周辺にはデジタル掛け軸を見ようとする人が並び、メイン会場となった倉庫には入りきれないほどの人々が訪れた。そして、藤田の姿を見つけると、たくさんの人が握手を求めてきた。藤田は大きな手応えを掴んだ。
「ナゴヤには人を動かすエネルギーが満ちている。」
回を重ね中川運河の価値を伝え続けた中川運河キャナルアートは、日本港湾協会企画賞、国土交通省の手づくり郷土賞を受賞するまでになった。藤田は「一般社団法人中川運河キャナルアート」の理事長として、未来を見据えたまちづくりを進めている。そして、キャナルアートから広がった活動「デザイン女子No.1決定戦」「みんなのファッションショー」も、惜しみなく協力してくれるTERAのスタッフと共に取り組んでいる。
すべてはナゴヤを感性育むまちにするために。
写真:後藤敏夫、一般社団法人中川運河キャナルアート